「なんでも速く、完璧に」がもたらす苦しみ

昔はよかった、というわけではありませんが、私が子供のころは今よりも時間がゆっくりと流れていたような気がします。25年前にドイツで会社員を始めたころも、今より時間はゆっくりと流れていました。国際電話は高額でしたので、緊急時にしか使わず、基本は「テレックス」という電報のようなものを使って日本と交信していました。テレックスオペレーターさんにメッセージを紙に書いて渡すと、その内容をできるだけ文字数を圧縮して(YouとUとしたり)テレックス機に打ち込んでくれます。1文字いくら、という課金方式でしたから、文字数セーブはとても大切でした。発信・返信は長いロールペーパーに打ち出されるので、担当者がそれをメッセージ単位で切り、必要な人に配って回る、そんな感じでした。受発信した内容はデータ化されませんでしたので、紙がなくなると大騒ぎ。即レスと言っても返事が来るには最低数時間、日本からの返信は通常「翌日」というのが当たり前。今では信じられないスピードでした。

技術の発展で情報の流れが速くなり、機械やコンピューターが完璧に作業をしてくれることで、私たちの生活は飛躍的に便利になりました。私もこうしてPCに向かい、自分の考えを皆さんに瞬時でお伝えすることができる便利さを享受しています。一方で、現代人はまさにその「なんでも速く、完璧に」のせいで自分を見失い、苦しんでいるとも感じています。今回はそのスピード重視と完璧主義の弊害について、エッセイ風に私の考えを書こうと思います。

即時に解決できない問題もある

心の悩みを抱えて私の講座にいらっしゃる方とお話をすると、多くの方が「とにかく早くこの状態から逃れたい」「こんな自分を今すぐにでも変えたい」と考えておられます。苦しみから一刻も早く解放されたいと思うのは当然ですし、私が心の問題で苦しんでいた時も全く同じ心境でした。私自身がMBSR(マインドフルネス・ストレス低減法)8週間コースを受講した際には、先生に何度も「3週間目も実践しているのに、まだ不安が消えないんですけど…」「効果が出るのはいつ頃ですか?」といった質問をしていたのも、私の中に「即時解決」を期待する気持ちが強くあったからでした。先生はにこやかに“Mal sehen.(まあ、どうなるか様子を見てみましょう)”と答えるだけで、私は余計イライラしたのを覚えています。

頭が痛いときは頭痛薬を飲む。Aというボタンを押すとBという答えが出る。そんな即効性に慣れている私たちは、進まないこと、進めないこと、中途半端な状態で宙ぶらりんになることをとても嫌います。ですが、心の問題を解決するには、まさにこの「宙ぶらりん状態と共にある」ことが必要なのです。解決を目指すことさえやめて、ただ「今ここの、中途半端な、これからどうなるかわからない自分」と向き合うことは、即時解決に慣れ、「待つこと」への耐性が弱くなっている現代人にとっては大きなチャレンジになっていると思います。

今の自分心の状態を知り、理解し、心の癖と向き合い、自分を苦しめいている執着が何なのかを見抜き、手放す(あるいはしがみつく手を緩める)。これには時間が必要です。当然、忍耐と努力も必要になってきます。私の場合、便利で楽な生活で失われがちな忍耐や深い理解力を、マインドフルネス瞑想を通して育てる努力をしていますが、どれほど時間がかかっても、今の自分の状態を受け入れ、理解し、自分と共に歩き続ける勇気は、即効性重視の現代を生きる我々が大切にすべき心の在り方ではないでしょうか。

あなたは機械ではない

どんな時もスイッチ一つで稼働、完璧な作業をこなす電気機器やコンピューター。あなたは自分をそんな機械と同一視していることはありませんか?空腹を満たすことはすぐに走りだすための燃料補給、何か間違いをすれば自分は欠陥商品…そんな風に自分を扱っていないでしょうか?

私たちは人間であり、機械ではありません。人によって能力や特性が違うだけでなく、体調によってできること、できないことが変わり、気分もその時々で揺れ動きます。落ち着いて対処できる時もあれば、想定外に取り乱すこともあります。うっかりミスもあるでしょうし、同じ間違いを繰り返してしまうこともあります。気を付けていても体調を壊すことだってあります。常に安定し、完璧で、どこを切っても同じ自分、ということはあり得ません。人間なのですから、当たり前です。不完全で揺れ動くのが人間なのです。

ですので、「完ぺきではない自分はダメ」という思い込みは自分の心・体を苦しめます。「不完全である」という自分の人間性を否定することですから。実際に、完璧主義で何十年も自分を苦しめてきた私が楽になったのは、マインドフルネスを通して揺らめく自分を観察し、「自分は完璧ではでないし、常に移り変わり、安定さえしていない、でもそれが私なのだ」と心から思えた時でした。

自分の不完全さを理解・受け入れると、他者の不完全さも理解しやすくなります。何かうまくいかないことがあると、反射的に自分を責め、相手を非難したくなるのは、「人は誰でも誤ることがある」という基本的な部分が腑に落ちていないからです。私が完璧主義だったころは、暇さえあれば人を責めていました(もちろん自分もです)し、人の悲しみにも無頓着だったのですが、今から思えば納得できます。

自分もあの人も、機械ではありません。誰でも失敗し、時には泣き、自分に絶望し、人に助けられ、また歩き出す。それが人間らしさであり、生きていく面白さでもあることに気づけるのは、完璧でない、生身の自分を受け入れた時だと思います。ちょっとしたことでSNSが炎上し、小さな不具合に厳しいクレームが入り、学校でも職場でも「規格外の人間はダメ」とレッテルが貼られる世の中に必要なのは、私たちが人間であり、人間である以上不完全なのだ、という認識ではないでしょうか。

速攻解決を求めず、不具合と共にいる勇気。そして人自他の不完全さ、人間らしさを認める勇気。
現代の流れに逆行していますが、私はとても大切なことだと思っています。