苦しみ・悲しみの意味とその先にあるもの

苦しみ・悲しみに意味はあるのか

苦しみ・悲しみに意味はあるのか。私は哲学者でも宗教者でもありませんので、この問いに答えを出すことはできません。ただ、自分自身の経験から、あえて答えを絞り出してみるとするならば、苦しみ・悲しみの体験があればあるほど、苦しんでいる人・悲しんでいる人の心を理解し、寄り添うことができるようになる気がしています。自分が苦しんだから、同じ(あるいは似たような)悲しみを知っているから、差し伸べる手や言葉に誠意がこもり、本当の共感の涙も流れますし、その人の過ちにも寛容になることができます。自分の苦しみ・悲しみにどんな意味を与えるかは人それぞれですが、私は、苦しみ・悲しみの向こうには「赦す心・寛容な心」が待っている気がしてなりません。

今回の記事では苦しみから赦す心が生まれた例を2つご紹介します。一つは私の例、もう一つはGregory Boyle神父の著書”Tattoos on the Heart”で描かれている例です。私の例は本当に大した例ではありませんが、ご参考になれば幸いと思い、簡単にご紹介することにしました。Boyle神父の著作は和訳されていないため、その素晴らしいエピソードをここで手短にお伝えします。

苦しみの共有に関しては次の記事もご参照ください。

セルフコンパッション・「共通の人間性」の持つ力

失敗の苦しみの向こうに・私の場合

私はかつて大変な完璧主義者、成績第一主義者でした。完璧に徹することで学校の成績もよく、成績が良ければ進学もうまくいき、就職でも問題はありませんでしたので、私にとっては「完璧で良い成績をあげる」ことが「人生の成功法則」になりました。恐ろしく極端で視野の狭い方法ですが、自分がそれでそこそこ成功してきたわけですから、「このやり方こそが幸せへの道」と信じて疑いませんでした。

子供が生まれ、学校の成績が大切になる年頃になった時、私の一方的な「成功論」の押し付けが始まります。ドリルを完璧にやる。人より多くやる。何度でもやる。計算ミスはする方がおかしい。テストは9割以下は失敗とみなす。私が自分に課してきたことを娘にも課していきました。うまくいかなければ「できないのがおかしい」「努力が足りない」とさらに追い詰めます。後から考えれば、これも、私が学生時代、私自身に常にかけてきた圧力でした。

娘の心が折れたのは12歳の時。私よりも何百倍も繊細な娘には、到底耐えられないことだったのだと思います。私がマインドフルネスを学び始めたのも、そのころです。始めは瞑想する度に娘への不満と今後の不安、現状に対するやり場のない怒りばかり感じていたのが、数週間経って、ようやく私の中の深い悲しみを感じるようになりました。

「男尊女卑で高圧的」だった父親への強い対抗心から、ひたすら「できる自分」を見せるために頑張り続けてきた苦しさ。「できる自分」の裏にいつもピタッとくっついていた、失敗への恐怖。娘を苦しめてきた自分への罪悪感。母親としての強烈な挫折感。そういった感情が、交代交代で、あるいは混ざりあって出てきました。こういった感情と折り合いがつくまで、さらに数か月かかるのですが、それらすべてに「善し」と言えた時、あれほど嫌いだった父親を赦す気持ちが生まれました。

自分の思い込み、失敗から生まれた苦しみと悲しみを感じ切って、その背景にあることを理解し終わった時、「ああ、父も、私と同じように、わかっていなかっただけ気づいていなかっただけなんだ」と気づいたのです。私がただ娘の幸せを願って、私の思い込みに基づいて懸命に娘に接していたのと同じように、彼も彼なりの信念(思い込み)に従って、私が知らない心の傷を背負いつつ、彼なりに精一杯、父親をやっていたのだと理解できたのです。私が娘の求める母親像がわからず、大失敗して苦しんだように、彼も、私が求める父親像がつかめないで、私から疎まれ、彼なりに苦しんだのではないか、そんな風に思えるようになりました。

父は他界してしまいましたが、私が父を思い出す時、嫌悪感を感じることはありません。無明(見えていない、わかっていない)ゆえに、誤解し、すれ違った、不完全な人間同士のつながりを感じ、むしろ温かい気持ちになるのです。私が失敗の苦しみから得たのは、不完全でありながらも懸命に生きた父を、そのまま受け入れる心でした。その心は、私自身が不完全で、執着まみれで、自分の思い込みに扇動されつつも、試行錯誤の中で必死で生きていることを受け入れた後に生まれたものでした。

耐えがたい悲しみを超えて・赦すことを選んだ女性

このお話は、ロサンゼルスでギャンググループに属する若者の社会復帰をサポートに人生を捧げるGregory Boyle神父の著作”Tattoos on the Heart”にあるエピソードです(Boyle神父は健在で、今も活躍されています。著書中の登場人物には仮名を使っていますが、すべて実話をもとにしたお話です)。ご紹介するのはSoledadという女性(母親)と二人の息子(RonnieとAngel)のお話。Soledadが耐えがたい悲しみの果てに、赦しの心を持つに至るストーリーです。

Soledadの自慢の息子、Ronnieはギャングには属さず、高校を卒業すると海軍に入隊します。この地域では高校を卒業すること自体が稀なこと、しかも海兵になったRonnieはSoledadの誇りでした。そのRonnieが休暇で自宅に戻ってきた時、Ronnieは家の前でギャンググループに絡まれます。銃声を聞いたSoledadは外に飛び出しますが、RonnieはSoledadの腕の中で息を引き取ります。Soledadは半年の間、涙に明け暮れ、喪に服し、お化粧もしなければ髪も整えず、身なりにも構わない生活を送ります。そんな彼女を支えたのが長男のAngelでした。Angelはかつてギャンググループに属していましたが、更生し、年下のRonnieよりも遅れを取るものの、立派に高校を卒業した青年です。AngelはSoledadを励まし、前を向きまた歩き出すよう促します。そして半年ぶりにやっと喪服を脱ぎ、お化粧をし、髪を整えたSoledadの顔を大きな手でつつみ、”ママ、最高に奇麗だよ”と言ったAngelは、その日の午後、ギャンググループの争いに巻き込まれ、銃殺されてしまいます。

Soledadの悲しみは言葉にはできないものでした。Bolye神父が訪ねて行っても、彼女は泣きながら”The hurt wins, the hurt wins.”(心の痛みに勝てないの)と繰り返すだけです。

2か月ほどした後、Soledadは不整脈と胸の痛みで救急病院に運ばれますが、ここで彼女の心に大きな変化をもたらすことが起こります。彼女が寝ていたベッドのすぐ横に、血まみれの青年が運ばれてきます。たくさんの緊急スタッフがストレッチャーを取り囲み、青年の服を切りひらき、心臓マッサージをしながらいろいろなチューブを取り付けていくのを横目で見たSoledadは、その青年がRonnieとAngelの命を奪ったギャンググループのメンバーであることに気づきます。

ここからは原文の描写が美しいので、そのまま転記します(後で私のつたない訳をつけますが、英語がわかる方は是非このままお読みください)。その時、Soledadは何を感じ、何を考えたのでしょうか。

"As I (Soledad) saw this kid," she tells me (Boyle神父), "I just kept thinking of what my friends might say if they were here with me. They'd say, "Pray that he dies." But she just looked at this tiny kid, struggling to sidestep the fate of her sons, as the doctors work and scream, "WE ARE LOSING HIM! WE ARE LOSING HIM!".

"And I began to cry as I have never cried before and started to pray the hardest I've ever prayed. 'Please...don't...let him die. I don't want his mom to go through what I have."

「この子を見た時」彼女は言いました。「もし私の友達がここにいたら、『この子が死ぬように願いなさい』と言うだろうな、と考え続けていました」。その青年を救おうと懸命に処置する医者たちが「まずいぞ!まずいぞ!」と叫ぶのを聴きながら、Soledadは、自分の息子たちがたどった運命から必死に逃れようとしているその青年に目を向けます。

「(その子を見て)私は、今まで泣いたことのないように泣きました。そして、今までささげた祈りの中で、一番つらい祈りをささげました。’お願いです、この子を生かしてください。この子のママに、私と同じ苦しみを味わってほしくないのです’」

出典:”Tattoos on the Heart” Gregory Boyle   Free Press(2010)

「この子のママに、私と同じ苦しみを味わってほしくないのです」。私は、このシーンを読むたびに涙がこぼれます。Soledadが、身を切り裂かれるような苦しみの中から選び取ったのは、憎しみではなく、赦しでした。私には到底たどり着けない高みですが、こういうお話に出会う度に、私は人間の強さに感服し、世の中に一人でもこういう人がいる限り、人間に失望することはないと思うのです。

苦しみに意味を与えるのは、自分

今日は苦しみが赦しにつながったお話を書きましたが、今回のように赦すことを学ぶこともあれば、全く違うことを体験することもあるでしょう。苦しみ・悲しみにどんな意味を与えるか、そこから何を引き出すかは自分次第です。

勿論、苦しみ・悲しみは、ない方が良いに決まっています。自分を大切にし、他者を慈しみ、外的要因が苦しみの原因であればそれを変える努力をし、できるだけ自他が苦しまない生き方をしましょう。同時に、それでも生まれてくる苦しみ・悲しみに対しては、できる限り善き意味づけができるよう、常に自らの心を磨いていくことも必要だと思います。