セルフコンパッション・「共通の人間性」の持つ力

「共通の人間性 Common Humanity」とは何か

以前、セルフ・コンパッションの大切な3つの要素について記事にしました。

セルフ・コンパッションと大切な3つの要素

一つ目は「自分への優しさ(Self-Kindness)」、二つ目が「苦しみ・不完全さは万人共通である(Common Humanity)」、三つ目が「マインドフルネス(Mindfulness)」です。今回は、私が大好きな考え方でもある、二つ目の「苦しみ・不完全さは万人共通」という認識(Common Humanity)について書こうと思います。

Common Humanityは通常「共通の人間性」と訳されていますが、いったい共通している人間性とはどういうことなのでしょうか。セルフコンパッションでは、例えば以下のような人間性を挙げています:

人間は過ちをおかすもの(完璧な人はいない)
人間はだれでも苦しみを知っている

私たちは、人の過ちに対して、あたかも鬼の首を取ったような態度をとることがありますが(一部マスコミの報道やSNSでのバッシングによく見られますね)、「過ちをおかす」という意味では、私たちは間違いをした人と同じ立場にあります。人生で一度も過ちをおかしたことがなく、後悔もしたことのない人間は、いないでしょう。何をやっても、常に完璧な人など、一人もいません。

生きる苦しみを知らない人もいないはずです。苦しみを引き起こすきっかけや苦しみの内容は人それぞれ違います。でも、だれもが「手に入れたいものが手に入らないこと」に苦しんだことがあるはずです。「手に入れたいもの」は物品のことだけを言うのではありません。あの人と一緒にいたい、子供に学校に行ってほしい、いい成績を取ってほしい、いつも健康でいたい、さらに業績を上げたい…こういったことも「手に入れたいもの」です。手に入れたいものが手に入らず、思い描いた通りに人生が進まず、苦しい思いをすることは、誰もが知っている体験です。

人間である以上、不完全なのは当たり前。失敗するのは当然のこと。思い通りにいかないことに出会うのも、当然のことです。落ち込み、後悔、情けなさ、やるせない気持ち…人間であればだれもが経験すること。決してあなた一人が体験していることではないのです。それがCommon Humanity、「共通の人間性」です。

「苦しいのは私一人」・孤独な気持ちが呼び込むもの

考えてみれば、「人間の共通性」の考え方は、当たり前のことですよね。ですが、私たちは苦しみの中にいる時、このことを忘れてしまいがちです。そして、忘れてしまう時に出てくるのが、孤独感です。孤独感はすでにある苦しみを減らすことはできませんし、さらに苦しみを作り出してしまいます。

仕事の失敗や大切な人との別れ、育児での問題や健康上の不具合など、理由はなんであれ、自分の心が痛んでいる時、「まるでこの痛みを感じているのは自分だけ」であるかのような、孤独感を感じたことはありませんか?

仕事でのミスは誰でもしたことがありますよね。それなのに、自分が仕事でミスをすると、「この悲しみ、恥ずかしさを感じているのは世界で私一人」のような気持ちになります。職場を見回して、屈託なく談笑している同僚を見ると、失敗への後悔で胸がいっぱいになるだけではなく、同僚と自分を比較して情けなさも感じてきます。同僚への嫉妬や理由のない怒りを感じることもあるかも知れません。屈託なく笑っているあの同僚だって、ミスをして落ち込んだことがあるはずなのに、自分はそれを忘れているのです。

私の場合、娘の学業が振るわず、かつ過呼吸やパニックを頻繁に起こしていた頃は、娘の友達の親御さんをみては「いいなあ、あの人たちは。子供に何の問題もないんだから」「なんで私の娘に限ってこんなことになるんだろう」と思い、「こんな目にあっているのは私一人だ」という感覚をとても強く持っていました。娘の友達の親御さんも、私のケースとは別の問題に向き合っているかも知れないのに。

「こんなに辛いのは私一人」という感覚は、自分と他者の間に境界線を引いてしまいます。他者とのつながりが絶たれてしまうと、自分というカプセルの中に閉じこもったような状態になります。でも、そのカプセルの中は当然視野が狭く、狭い視野の中では更に自分を苦しめる思考や感情、例えば自分責め、他者への嫉妬心、自己憐憫などが生まれやすくなってしまうのです。

私の場合、上に書いたように「こんな目にあっているのは私一人」という感覚があった頃は、娘の友達の親御さんには嫉妬に近い羨ましさしか感じられず、同時に、自分の母親としての技量の低さを恥じる気持ちで一杯でした。娘のことで苦しんでいる、それだけでもつらいのに、孤独というカプセルの中にこもることで、嫉妬や羞恥心まで背負い込んでいたのでした。

自分の心が痛む時こそ、余計な痛みを背負わないように、意識して孤独から抜け出す必要があります。ここで意識的に「人間の共通性」を思い出すことは、孤独から抜け出すためにとても大切なことなのです。

「みんな同じなのだ」・孤独からの解放

仏教の経典の中に、こんな逸話があります。私が大好きなお話です。ご存じの方もいらっしゃるかも知れませんが、幼い子供を亡くした母親に「死人が出たことのない家から、ケシの実をもらってくることができたら、子供は生きかえる」といったブッダのお話です。

目に入れても痛くないほど可愛がっていた幼子を亡くした母親がいました。半狂乱になり、息のない子供を抱きかかえながら、道で出会う人に「どうか、この子を生き返らせて下さい」と訴えて歩いていました。哀れに思った人が、彼女をブッダのところに連れていきます。ブッダは彼女に「この村の中で、今までに一人も死人が出なかった家から、けしの実をもらってきなさい。そうしたら子供は生きかえるでしょう」と言います。それを聞いた母親は片っ端から村の家を訪ねて回りますが、今までに死人が出なかった家などありませんでした。そこで彼女は「人の命はいつか必ず尽きるものだ」と言うことを理解し、子供の死を受け入れることができた、というお話です。

このお話は、人の命に限りがあり、死は誰にも訪れ、免れることはできないことを教えてくれますが、私は、この話は「共通の人間性を使った孤独からの解放」のお話でもあると思っています。

赤ちゃんを抱いた母親が訪れた家はすべて、家族の死を経験していました。ある人は「昨年、主人に先立たれました」と言い、ある人は「二年前に娘が帰らぬ人になりました」と言ったでしょう。 母親が抱いている動かない赤ちゃんを見て、その時の悲しみがよみがえってきた人もいたのではないでしょうか。大切な人の死を思い出し、生前の姿を思い出し、けしの実を求める母親の前で、新たな涙を流した人もいたに違いありません。

けしの実を手に入れることができなかった母親は、何を感じたのでしょう。だれも死から逃れることができない、ということを理解しただけだったでしょうか。私は、この母親は、他の人の悲しみに触れることで、「この悲しみは私だけのものではないのだ」と感じることができたのではないかと思うのです。「私と同じように、自分の命を捨てても惜しくないと思える大切な命を失った人が、ここにいる。私と同じ、この張り裂けるような心の痛みを知っている人が、本当にいるんだ」。そう感じたのだと思うのです。そして、そう感じた時、彼女の孤独感は消え、悲しみは癒しに向かって和らぎ始めたのだと思います。

今がどんなに辛くても、今の自分がどんなに不甲斐なく、情けなく感じられ、絶望的な気持ちでいるとしても、同じ苦しみを知っている人がこの世に必ずいる。私は一人ではない。この母親が救われたように、私も、この事実を考えると苦しみが和らぎ、自分を責める気持ちや人をうらやむ気持ちが消え、自分をいたわる想いが芽生えてきます

自分が傷ついている時、孤独感を感じるのはごく自然なことです。是非その気持ちに寄り添ってください。そして、その苦しみはあなただけのものでないことを思い出してください。人は誰でも、それぞれの重荷を背負って生きています。あなたと同じ苦しみを感じている人が、今この瞬間、この世のどこかにいるのです。「人間の共通性」を思い出し、苦しみと共に生まれる孤独感から自由になってください。孤独感が消えた時、自分は一人でないとわかった時、あなたの中に自分を慈しむ心が芽生えていると思います。